清朝の妃について話すと、多くの人がまず思い浮かべるのは西太后(せいたいこう)こと慈禧太后(しきたいこう)です。次に、光緒皇帝(こうしょこうてい)に寵愛された「珍妃(ちんひ)」が思い出されます。しかし、珍妃の最後は悲惨で、西太后に追い詰められて井戸に飛び込んで亡くなりました。でも、知っていましたか?珍妃には2歳年上の姉「瑾妃(きんひ)」がいたのです。今、故宮(こきゅう)で展示されている「翠玉白菜(すいぎょくはくさい)」は、瑾妃が嫁ぐときに持ってきた嫁入り道具です。二人は同時に宮中に入り、光緒帝の妃となりましたが、その運命はまったく異なるものでした。瑾妃は容貌で妹に及ばず、皇帝の寵愛も受けませんでしたが、一生裕福に暮らし、穏やかに生涯を終えました。
瑾妃の生涯と背景
「瑾妃」(1873年-1924年)は、後に「端康皇貴太妃(たんこうこうきたいひ)」と称されました。彼女は満州のタタラ氏(他他拉氏)で、鑲紅旗(しょうこうき)の人です。もともとは戸部右侍郎長敘(ちょうじょ)の娘で、1888年に瑾妃と妹の珍妃が同時に選ばれて光緒帝の妃となり、翌年の元旦に正式に結婚式を挙げた後、それぞれ瑾嬪(きんひん)と珍嬪(ちんひん)として宮中に入りました。1889年には、西太后の還暦を祝うために、「瑾嬪」は「瑾妃」に昇格しました。瑾妃はその名の通り、慎み深く生き、争いを避け、誠実で幸せな一生を送りました。宮中では「胖娘娘(ふとっちょのひめ)」と呼ばれ、光緒皇帝が珍妃を特に寵愛していても、嫉妬することなく穏やかに過ごしました。
▲ 姉: 瑾妃
▲ 妹: 珍妃。美人で皇帝の寵愛を受けたが 皇帝のおば「西太后」のモラハラでお腹の子は流産、自身は井戸に投げ込まれ死亡。自殺ということにされる。
故宮の宝:翠玉白菜
▲故宮の宝「翠玉白菜」は瑾妃の嫁入り道具です。
紫禁城での生活と最期
瑾妃は紫禁城(しきんじょう)の永和宮(えいわきゅう)に住み、しばしば書画を楽しんでいました。1900年7月、八カ国連合軍が北京に攻め込んだ際、西太后は宮廷の人々を連れて紫禁城から逃亡しましたが、瑾妃は妹のような悲運に遭わず、逃亡者の一員となりました。宣統皇帝溥儀(せんとうこうていふぎ)が即位した後、「兼祧皇考瑾貴妃(けんちょうこうこうきんきひ)」と尊称されました。宣統帝が退位した後、小朝廷によって「端康皇貴太妃」の称号が贈られ、瑾妃は引き続き永和宮に住みました。溥儀からは「皇額娘(こうがくじょう)」と呼ばれ、1924年10月20日に永和宮で51歳で亡くなりました。翌年の12月、瑾妃は崇陵(すうりょう)の妃墓園に葬られ、清西陵(しんせいりょう)に最後に葬られた皇妃となりました。
瑾妃の生涯は、清朝末期の宮廷生活を垣間見る貴重な一例です。妹の珍妃とは異なり、争いを避けて静かに暮らし、書画を楽しむ彼女の姿は、多くの人々に愛されました。翠玉白菜を含む彼女の嫁入り道具は、今も故宮でその美しさを伝え続けています。