この記事では、ベトナム人と仕事を行う上で役立つ最低限のベトナムの歴史をご紹介しましょう。今回は、中国からの独立から第二次世界大戦集結までです。
※この記事の内容は、ベトナムで起きた歴史とそれによる現在への影響を伝えることを目的としており、特定の政治や政策、特定の国家のやり方やいろいろな主義主張などに対して意見を述べるものではなく、当サイトはそれらに対して賛成も反対もしていないという点をご了承ください。また歴史の解釈には諸説があるということを踏まえて、ご覧いただけましたら幸いです。
中国の1000年支配
ベトナムは約1000年間中国に支配されていました。

そう、「キングダム」で有名な秦王朝は北部ベトナムを征服します。ここからはじまる中国の支配期間を「北属期(Bắc thuộc)」といいます。
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このような歴史背景から、上の記事でも暑かったように、ベトナムは中国の濃厚な影響を受け、漢字をつかうようになりました。
今でもベトナム人の名前は、漢字で書き記すことができます。このように中国の従っているように見えたかと思うと、ときに反抗を起こすということを繰り返します。
そして中国の唐王朝が衰退し、中国が多くの国に分かれて弱体化していきます。「これはチャンスだ! 」とベトナムを独立させようと色んな人が立ち上がりました。しかし、国ができては潰れ、できては潰れを繰り返します。そしてここでようやく李公蘊(り こううん、 Lý Công Uẩn ) という人が現れます。

北に抵抗、南へ拡大
「中国から独立して、強い国を作るぞ! 」。李公蘊は中国から独立し、ついに安定した国を作ることができました。ここでできた王朝が
「李朝(Nhà Lý)」といいます。
しかしその後も王朝は次々と変わっていきます。また中国の支配の波を受けては抵抗するという歴史が繰り返されます。ホーチミン市の有名な通りに「チャンフンダオ通り」というのがありますね。このチャンフンダオと言うのは、この時代の武将の名前です。チャンフンダオは、その当時中国を支配していたモンゴル帝国の「元」と戦って無事ベトナムの防御に成功したので、ベトナムの英雄となりました。
このように北部では、中国からの攻撃からの防御を行いましたが、もっと領土ほしいなぁと更に南部では、カンボジア系の国を滅ぼし、征服していきました。そしてベトナム最後の王朝、阮朝(グエンちょう Nhà Nguyễn )のとき、ついにベトナムが統一され、今の地図のように細長いベトナムが完成していきました。
フランスの支配
ついにベトナム統一! と喜んでいたのもつかの間、ここで別の勢力がやってきます。フランスの台頭です。中国でアヘン戦争が起こり中国はヨーロッパの植民地になったのを見て、阮朝の王様はこれは危ないとおもい、キリスト教の禁止を命じます。キリスト教禁止に怒ったフランスはベトナムを攻撃。これが、フランス=ベトナム戦争(仏越戦争)です。この戦争でフランスは勝って、ベトナムはフランスの支配下に置かれました。
このフランスの影響で、今でもベトナムではフランス式の建築や、コーヒーやフランスパンなどの食習慣が根付いています。また、ベトナム語の語彙の中に多くのフランス語由来の外来語が含まれるようになりました。そして宗教に関して、人口の約10%をカトリック教徒がしめているといわれています。これはアジアの国ではフィリピン、韓国に次ぐ三番目にキリスト教徒が多い国ということになっています。
日本の占領
時は流れて第二次世界大戦。東南アジアを攻めにやってきたのが日本。フランスがドイツに負けているのを見て、フランスの植民地だったベトナムを占領してしまいます。これを「仏印進駐」といいます。そして日本はベトナムの人たちに、米を育てるのをやめて、戦争で使う麻をそだてるよう命令します。そして、日本軍はベトナムの米を大量に買い上げてしまいます。そこに干ばつが生じます。米の生産が激減。結果的にベトナムの人が食べるお米がなくなり、生じたのが大飢饉。大勢の餓死者が出ました。
なんとかしてフランス、そして日本から独立したい。そこで現れたのが「ホーチミン」という人です。ホーチミンはベトナムの独立をすすめるグループを作りました。そして日本が戦争に負けた着後に、ベトナム人の国「ベトナム民主共和国」の樹立を宣言しました。
東西冷戦、ベトナム戦争へ
ベトナム人の国の樹立を宣言したのもつかの間、ベトナムは東西冷戦の間でまたもや戦争に巻き込まれることとなります。世にいうベトナム戦争です。ベトナム戦争に関しては、機会があれば別の記事でとりあげることにいたしましょう。